ネット上で死ぬと不都合はどれほどあるのか?

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ネット上で死ぬ事は実に簡単。ただアクセスしなければ良いんです。書き込みを残すなどの、具体的なアクションを起こさないだけでも死ねる気がします。具体的に言えば、僕がこのブログを全く書かなくなって3ヵ月もすれば、このブログでのみ僕という存在を認識している人にしてみれば、死人と同然になります。

オンライン透明人間

ブログ以外で僕に直接連絡をとる手段を持っている人にしてみればあまり関係の無い事ではありますが(その連絡さえも無反応を続ければ死人になれる)、ネット上における存在感は明らかにアクションの結果のみでしか示しようが無いですよね。

 facebookやmixiに登録せず、オンラインゲームにも登録せず、ブログも書かず、誰かのポストにカキコミもせず、ツイートせず、ただ閲覧するだけのスタイルを貫き通せば、現実ではあり得ない「存在しているが全く見えない」と云う透明人間のような存在になる事が出来ます。

 少々魅力的な性質です。

 1990年代以前は今ほどインターネットが生活に浸透して居なかった事を思い出せば、ネットにおける透明人間であってもなんら問題ないはずで、今となっては心理的にはネットに接続していないと云う疎外感や喪失感を弱冠感じるかもしれないですね。が恐らくは直ぐに慣れる事が出来る気がします。

 ただし、TVのコマーシャルでさえ「ネットで検索」という言葉を容易く流す時代ではあるので情報としてネットの存在を遮断するのは難しそうです。そこで能動的なアクションだけを徹底的に起こさないという手段をとったとして、どれ程の不都合が起こり得るのでしょうか。

アンプラグドのストレス

まず思いつくのは発信の欲求を満たせないというストレス。これは僕がブログを続けている一番の理由であるから、いきなりなかなか大きな問題ではあります。とは云え、ネットと云う手段以外で発信欲求を満たす可能性を吟味した事は今まで無く、実は2016年だからこそ価値のあるローカルでアナログな手段というモノも、もしかしたら存在しているかもしれません。

 今更ながらペーパーメディアのみで駄文を排出し続けると云う行為は少し面白そうではあります。すんげー手間かかるし発信対象せまくなるけど、元々多くの人々に読んでもらいたいと云う欲求はさして強くないので、そこはクリア。

 次に、SNSなどで成立しているコミュニケーションが取れなくなるというストレスですけども、これはあまり重要ではありません。何故なら本当に自分にとって必要なコネクションは、ネットなどを介さずともコンタクト可能な手段をとっくに確保しているはずだからです。住所とか電話番号とか教えてるよね。

 次に大きそうなのがネットでの繋がりを発端とした新たな人間関係やコミュニティの構築が出来なくなるストレスで、これは明らかにその他の手段では補完出来ないような気がします。これ程迄に対人障壁を乗り越えるハードルが低い手段が他にあり得ないと感じるからです。

 この部分を他の何かで補うのはなかなか難しい問題で、補おうと思わない事にするという解決手段くらいしか思いつきません。まあそれでもいいかリアルの人間関係が充実してる事だし、ってことにしておきます。

最後に

と、無理矢理ですけどネット上で死んでもあまり問題が無いという理解を自分に強いてみました。このエントリを最後に僕はネット上で死んでみる事にする、実に簡単。何処にもログインせず、何も書かず、誰とも交わらなければ良いだけなのですから。

 ネット上で一旦死に透明人間としての振る舞いを。

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 と、考えてみたのだけど僕には無理だった、という文章を結局は書いてしまいました。■■

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