コミュニケーション。
いつからでしょう、コミュニケーション能力の価値がこんなにも高騰したのは。
企業は口をそろえてコミュニケーション能力の必要性を説きますし、新入社員に求める素養として「コミュ力高い人」は鉄板です。
さて、僕は仕事で対価を得るという生活を約20年続けてきました。
しかしこれまでずっと、ここ5年を切り取ったとしても、コミュ力が高いなーと感じる人の割合が変わったとは全く感じていません。
むしろ、「コミュ力って必要だよね」という空気に便乗しているのに自身はコミュ力低い事に気が付いていない、的なケースを目にする事が増えて来て、心理的な部分でいえば状況は悪化しているんじゃないのか?とさえ思います。

じゃあお前はコミュ力高いのかよ、あ?
デスヨネー、それ思っちゃいますよねー。
でも、ソレはまあいいじゃないですか。
誤魔化したいのではなく、テキスト上で僕自身のコミュニケーション能力の程度をお伝えする事は不可能ですし、伝えたところで論拠が弱いと思いますからあまり意味がないと思うんですよね。
でナニがいいたいのかというと「コミュニケーション能力」というものを僕がどう捉えているか、どういう能力の事だと考えているか、つー事にフォーカスして書いてみようと思うワケです。
自由で無節操な持論です。
コミュニケーション能力とは-TSUYOSHI ver.-
多くのブログエントリやノウハウ系書籍で謳われるコミュニケーション能力の前提は、すなわち「会話の能力」である事が多いですよね。
コミュニケーションには会話が不可欠という前提によって、論理展開していく。
まソレは間違っていないと思います。
しかし僕の感じている結論としては、コミュニケーション能力が高い事と会話能力が高い事とは、必ずしもイコールではない、と思っているんですよね。
どういう事か。
まずコミュニケーション能力を僕なりに分解してみるところから始めてみます。
一旦会話がある、という状況をベースにしてみます。
コミュ力その1-傾聴スキル-

僕が思うに、コミュ力の7割は傾聴に尽きる、んじゃないでしょうか。
社会に出てよくわかる事は、世間とはとにかく人の話を最後までちゃんと聴こうとしない人類の巣窟だという事です。
よく、大事な事なので2回いう、みてーなフレーズがありますが、大事じゃない事まで2回いわないとダメな状況など、日常的です。
ちゃめしごと(←フックw)です。
文章を読めない人類の特徴は「文章の理解力が致命的に低い」のではなく「自分にとって気になる単語」が文中に登場した瞬間その先を読まなくなる事であるように、誰かが喋っている言葉の中に「自分にとってインパクトがある単語」が出現した瞬間に、相手がいっている事を聴かなくなる(本当に一切聴かない!)人類が多いのです。
誰かが自分に語り掛けている時、自分の頭の中に「これをいいたい!」と感じた人は、その案件を保留しながら、まずは相手のいっている事を聴き終え、それから自分の主張を展開すればいいハズです。
普・通・は。
まつまり、会話してる時ってのは脳味噌が穏やかな状態ではないので、普通に考えれば誰でも判るし出来るような事を実行出来ないんでしょうね。
また別のケースもあるでしょう。
人の話はしっかり聴いてるんだけど会話が円滑に進行しない、みてーなケースですかね。
とにかく、最後まで聴・い・て。
コミュ力その2-同調と共感-

会話つーのは情報の塊をキャッチボールのように互いに投げつけ合いながら、徐々に情報の形を変えていく事に意味があるのかなーと思うんですね。
それが有意義な情報でも無意味な情報でも。
この情報キャッチボールの際に多くの人類は相手が持っている辞書は自分の辞書を同じものだと勘違いしがちです。
必ずしもそうとは限らないって事は、誰でも知っているはずなのに。
いい変えると「ごく稀に存在する同じ辞書を持っている人」は、当人達にとってとても価値のある存在って事ですよね。
とにかく前提は「相手が持っているのは自分のとは全然違う辞書である可能性が高い」って事です。
じゃどうすんのか。
同調と共感がその答えだと思うんですよねー。
誤解がないように説明します(ココでまずは僕の主張を読み進める事が出来たらイイですね!)w。
「同調」だとか「共感」などという言葉もまた、本来言葉が持っている意味以上の印象や空気(?)を持っている厄介な単語です。
反応しちゃう人が多い、って事ですね。
僕がいいたい「同調」「共感」は、「一旦自分のキャラを変えてみる」といい変えられるかもしれません。
何も、すべからく本気で心の底から「同調」「共感」すべし、といいたいのでは決してないんですよね。
まず相手の辞書を自分も持ってみる。
比喩ですが、まあそんな感じです。
手持ちの辞書が異なっていた場合にとり得る選択は3択で、以下のいずれかでしょうね。
- 自分の辞書を相手に持たせる
- 相手の辞書を自分が持つ
- それぞれの辞書のままで居続ける
で僕は、ひとまず「02.」を選んでみようぜ、といいたいワケですね。
一回持ってみるけど後で自分の辞書を持ち直す、ってーことを前提にしてね。
これもまた、何故だか「相手の辞書を持つ事」が負けたと感じる人類が多いようでして(笑ってしまいそうですが笑っちゃだめですな←おい)、一度持ち替えたらもう一生自分の辞書は持てないとでも思っているかの如く、何がなんでも自分の辞書を固く握りしめたままの人を見かけたりもします。
いいじゃん、一回相手の辞書覗いてみても。
最終的に主張が180度違う相手であるという未来はどんな場合でも不可避ですが、常に最短コースを選ぶ必要などない、というかコミュニケーションってそういう目的じゃないって思うんですよねー。
だから、自分の主張や考えと違う相手と会話(それが例えばチャットなどでも)する時は、相手の側に回ってみてあちこち観察するようなつもりで「同調」「共感」してみるといいんじゃないでしょうかね。
別に騙すワケじゃないですし。
コミュ力その3-相手に思われたい自分を演じる-

これ、むっちゃ恥ずかしい話題ですが、書いてしまいます。
つまりは、コミュニケーションする相手から、自分はどう思われていたいのか、つー感情にフォーカスしたら足りないものとか、目指すものが見つかりやすいかもよ?って事をいいたいんですね。
ある種の自己愛を認める行為でしょうか。
- カッコいい男子と見られたいのか
- おしゃれで清楚な女子と見られたいのか
- キレ者の仕事デキル系ヤング・エグゼクティヴと見られたいのか
- なんでもよく聞く可愛い新人とみられたいのか
- 個人主義の少々扱いにくくても個性を重視した変人に見られたいのか
色々あるでしょうね、それこそ千差万別に。
結局はこの「自分がこう見られたい」つーイメージが、全てのコミュニケーションの下敷きになるんじゃないかなーと思うんですよね。
いい変えると、この下敷きの違いによって、コミュニケーションの手段における「正解」が変化すると思うんですね。
ソコだけは相対化される。
そりゃそうですよね。
その人を取り巻く環境や身を置く集団、その集団内における自分の立ち位置、なんかで「正解」はコロコロを表情を変えてしまうので、「コレやっといたら万事OK!」といわれたトコロで、なんだか嘘くさい、と僕は感じます。
ただ、考え方の方向性として、ぼくは提案したいなと感じたんですよね。
最後に
伝わったんでしょうか。
判りません。
僕なりに丁寧に作文してみたのは間違いないので、へーそういう考え方もあるんだねーくらいに思ってもらえたら嬉しい、かな。
何れにせよ、どんな場面でもどんなシチュエーションでも同じ事をヤってりゃOKなんて秘策は存在しません。
アドリブですから。
でも具体的で詳細なアクションを数多く提示されてもソレを覚えるだけで大変だし、「えっと、今はAパターンだからこの話題はNGだったっけな」みたいな事を逡巡するようなスピード感じゃないんですよね、多くの場合。
だったら、大きく3つくらいの事をぼんやり覚えておく方が、自分なりのルールだったり拘りだったりが段々とじんわりゆっくり、出来上がっていくんじゃないかなーと思う次第です。
あと最後の最後に怒られそうな事書きますけど、殆どの他人とは分かり合えなくて当然です。
だから、もっと気楽に生きましょうね。■■
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