ネット界隈では、様々な悩みを抱える人々が自分と同じ悩みを持っている誰かとその気持ちを共有する文化がありますよね。
あら、なんかイヤないい方ですけど悪意はないんですよ。
それってもしかしたらはてな特有の事象ではなくて、オンラインで多くの人(3人以上)が集まればことごとくそんな雰囲気が出来上がってしまうモノなのかもしれません。
僕は約6年ほど前に父親という立場になったものですから、この「自己肯定感が低い」という話題にはそれなりに過敏な反応をしてしまうのです。
今回は僕が感じた事、これまで感じてきた事、などを書き綴ってみようと思います。
僕の自己肯定感

正直申しまして40歳位になるまで一度も考えた事のない話題でした。
自己肯定感という単語そのものを認識したのも、その頃くらいです。
じゃあ認識したならイッチョ考えてみようか、という気分になりました。
自己肯定感つーのはなんなのか。
ネットを拾い読みしながら彷徨いてみると概ねの理解は出来ます。
つまり、自己肯定感が高いってのはこういう事のようですね。
自己肯定感が高い
- 自分の行為を肯定的に考える事が出来る
- 自分の事を好きになれる
- 自分の存在に対して特に劣等感を殆ど持っていない
- 素直によろこぶ
- 相手に感謝する
- あまり落ち込まない
- 自分のミスを素直に認める
- 怒られても自分を高めるための意見として歓迎する
翻って自己肯定感が低い状態つーのは、こんな感じみたい。
自己肯定感が低い
- 自分の行為をことごとく否定的に捉える
- 自分の事を好きになれない
- 自分の存在に対して劣等感を強く感じる
- 素直によろこべない
- 褒められても嫌味なのでは? と感じる
- 怒られると必要以上に落ち込み自分はダメな人間だと感じる(拡大解釈)
- 「絶対にミスはダメだ」と自分を追い込む(完璧主義)
ま逆なんだからこうなりますわな。
こんな人も世間には居るものなのかなー程度の感想しか持たなかったのは、僕の感覚からすると自己肯定感が低い状態はとっても珍しい事だと感じて疑わなかったからです。
つまり、考えるまでもなく僕は自己肯定感が高い側の人間だと感じた、って事でしょう。
素直にそう感じたので多分間違いないと思います。
しかし、当然僕と同じ感想を持っているだろうと思ってこの話をフッた相手は、必ずしも同意を得られなかったんですね。
一番近しい人間は妻です。
彼女は、自己肯定感が低いと自己分析したのです。
しかし改めて思い直してみると、確かに妻は自己肯定感が低い人類だという事が直ぐに解りました。
僕と真反対の性格だからです。
彼女のいう事がよく理解出来ない事が度々あったのですが、 それは自己肯定感の低さからくる反応や主張だったのだと後になって気付きました。
「自分は自己肯定感が低いからあなたのいっている事は実行出来ないし本当の意味で理解する事は出来ない」などというセリフは日常会話において出てくるはずもありません。
しかし、その誤解、というか理解不足?思いやりの欠如?によって引き起こされる認識のズレや行き違いは、なかなかクリティカルなダメージを与える事もあります。
お互いに理解可能な言語、単語、を使っているのにも関わらず、根底の意図を理解出来ないワケですから。
当然ながら「は?何いってんの?」状態に突入します。
この「は?何いってんの?」状態が開幕してしまうと、もうあとはドチラかがただただ引き下がるしか決着しません。
そしてその際にも、自己肯定感が低い側が仕方なく引き下がる事になるワケです。
お気づきかと思いますが、僕はこの認識に至るまで、引き下がりませんでした。
最悪です。
自己肯定感が強いという事は、自分が考えて出した結果に引け目を感じませんから、相手を思いやる気持ちがあったとしても、理屈の上で根本的に納得出来ない事は消えてなくなる事もなく、ずっと違和感を感じ続けます。
結果、いつかその思いを口にする機会がやって来て、不本意にも相手を傷つけてしまう。
いや、自己肯定感が低い人だってきっとそうなんでしょうね。
その違和感を感じつつも、自分の理解が至らないのだと無理矢理肯定してしまうのが自己肯定感の低さともいえそうです。
いずれにせよ自己肯定感が低いと、無理矢理自分を納得させる機会が増えるワケですから、ストレスも溜まりやすいでしょう。
我慢を繰り返しているのは、体にとっても精神にとってもイイ影響を及ぼすハズがありません。
まずは理解する事がやはり大事

どこまで行ってもコレに尽きます。
まずは相手の考えを理解しようとする事。
僕は妻とのやり取りで他人の自己肯定感について考える機会を得る事が出来たので、何度も議論した末に腹に落とす事が出来ました。
有難い事です。
しかしコレは、自分独りで考えたトコロで到達出来なかった答えだと思うんですね。
自分独りの考えはどこまで行っても「自分」という境界線を越える事が難しいからです。
限界といえるかも。
自分で考える事が出来る物事なんて、たかが知れていると思います。
他人とのコミュニケーションを積み重ねて気付きや自己の再発見をする事で、初めて見えてくるもののなんと多い事か。
自己肯定感が高い人類は比較的前向きな性質である為に、必ずしも他人を思いやれないタイプではないと思います。
しかし、自己肯定感が強い者同士の会話では発見出来ない事が確実に存在しています。
僕と妻のケースにしても、もし妻が僕と向き合う事を避けて「自分の考えや主張を判って欲しい」という気持ちにフタをしてしまっていたとしたら、僕は何も気付かずに「自分達夫婦はとても理解し合っていて上手くいっている」と信じて疑わなかったでしょう。
元々の性格や性質は、物事を理解したからスグに変化するものではありませんが、少なくとも相手の内面を理解出来た事で、気遣いによって避けられる衝突や食い違いがあると思います。
何より「相手を知らない内に傷つけてしまう事」は避けられるかもしれません。
僕も妻もただの人間ですから、状況によっては冷静でいられない時もあるし、理由もなくイラつく時だってあります。
しかし、「理解」によって少しだけ相手を気遣う事気持ちを持てるようになれたら、お互いの人間的な不安定さも愛せるかもしれないなーと思います。
子育てにおける自己肯定感

専門家ではないので感覚的な話になってしまいますが、我々夫婦は愛する我が子を溺愛しています。
ですので、毎日褒めて毎日称えます。
娘の親に対する承認欲求を確実に満たしてやりたいと強く思っているからです。
勿論、ヤってはいけない事をヤってしまった時は叱りますが、ちゃんと謝ったら「えらい!」と褒めています。
「ありがとう」をいえた時も「えらい!」と褒めます。
妻と娘のやり取りを見ていていつも感心する事があります。
それは、娘が参加出来る選択には必ず意見を聴き、その意見を採用している事です。
僕などは「まあ2歳児に選ばせても意味わからんやろな」と勝手に解釈してしまい、その選択肢が存在している事すら娘に伝えない事が殆どなんですね。
例えば今から買おうとしているストローの色をどうするか、とか。
妻は、娘の趣味趣向が少しでも影響しそうな選択の場面では、必ず「どっちがいい?」と娘に聴きます。
そして聴いた以上、必ず娘の選択を採用します。
あまりにその答えが気に入らなかったら場合は別のモノを再提案している場面も見かけますが(w)、でも最終決定は娘に委ねています。
この事は娘の自尊心や自立心を確実に育てているように見えるんですね。
自己肯定感を高めていけそうな予感がします。
自己肯定感が高い事で気が付きにくい事もあるかもしれません。
例えば自己肯定感が低い人の気持ちなど。
しかし、自己肯定感が高い方が、圧倒的に生きやすいのは間違いないように思います。
娘の人生を敢えてハード・モードにしたくはないので、彼女が自己肯定感を高く持てるように、親として娘を肯定してやろうと思いました。
少なくとも我々夫婦にとって、娘の存在価値は無限大ですから、その事を何度も伝えていこうと思います。
最後に
どうという事のない内容を取り留めなく書いてしまいました。
この感情を書き残しておきたかったんですね。
その目的は達成出来たように思いますので、この辺で終わりです。■■
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