日本女子大学を変えようとした女性のエントリを読んでおっさんが考えた事

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たまたま、はてな界隈で見つけたエントリです。

僕などはいい歳のおっさんなので、感心の目で読んだのですが、ブックマークコメントを見ると必ずしもそういった反応ばかりではなかったようですね。

またもやアドバイス罪が零れている

このエントリは回顧録です。

少なくとも今より若かった自分の過去エピソードを紹介して、こんな事ヤった事あるんだよね引き継いでやってくれる人がいたら嬉しいナ、という感じでしょう。

いくらかの、自分はこんな事が出来たんだよ凄いでしょー的な自慢めいた風味もあるのかもしれません。

ただそれそのものは問題ではなく、その事実が多くの読み手にとって「ほんとだ、すごいね!」と思えたのか「別に大した事じゃなくね?」と思えたのか、感じ方の違いに過ぎません。

上記のエントリは多くの人にとって前者の感想を抱ける程に、アクティブで前向きだったんだと思います。

行動力を称賛する声が、ブックマークコメントに多く寄せられていました。

僕などのようなおっさん風情にとっては、こういった若者の反体制感やその行動の記録などは、ある種のカタルシスを与えてくれる心地よい戦記でして、おっさんホイホイとして十分に機能してるんですよね。

よーがんばったなあお嬢ちゃん、おっさんも昔はなあ体制に反抗してこんな事とかあんな事とかヤってたもんやわあ、そんな事したってなんも変わらんかったんやけどなあ、まああの頃の若者っちゅーのは(ry

あぶねーあぶねー。

こういう事を語り始めた中年は危険なので近寄ってはいけませんよ。

貴重な人生の時間を無駄にする可能性がありますので。

体制に抗う、なんて行動はもはや若者の使命みたいなものでして、若さ故に守るものもシガラミも持ち合わせていないものですから、自分の感情や信念に素直になる事が出来るんですよね。

これがとても貴重であり眩しいくらいに煌くのです。

おっさんの目では直視出来ないレベルでキラキラしています。

そこには羨望もあり、そうしたかったけど出来なかった自分、同じような抵抗をして挫折した経験がある自分、を重ね合わせるにはあまりに魅力的なんですよ。

しかしここでも罪人が沸きだします。

いわずと知れたアドバイス罪の咎人達。

最初に書きましたが件のエントリは本人の回顧録なワケです。

学生の脳味噌で考え学生の体力で実行した、思い出話です。

その話に対してダイの大人が、総ての結論が出た状態である今というタイミングで「これはこうすべきだったね」とか「ここまでヤるんならこうやったら良かったのに」とかいっちゃうとかね、もう見てらんない。

なんなの。

最適解いわないと気が済まないマンなの。

いやもう、そういう病気?

安全地帯からのアドバイス

とにかく、なんの障害も軋轢もない環境から、少なくとも行動を起こして結論を導き出した人に対してアドバイスを宣うとは、なんという贅沢者。

つーかもはやアドバイス足り得ていませんが、本人はそんな風に思っていない事でしょう。

アドバイスってのは、する側の娯楽である事が多いので、アドバイスされる側が受け手なのではなく、アドバイスする側が「アドバイスさせてもらっている」という認識をちゃんと持ってもらいたいものですね。

インターネットがこれだけ普及してしまったものだから、アドバイスという娯楽はまるで「赤の他人から送られる知見の共有」みたいな錯覚を引き起こしていて面倒です。

赤の他人が困っている要件について、そも知る由もなかった時代が懐かしく感じられますな。

何かを失敗をしたり実行をした人々が、その体験談や意見を容易に公表する場を獲得した件に大きな喜びを感じる一方で、無自覚な助言の押し付けもまた増えたわけです。

もはや人々は無自覚になってどんどん集団的に偉そうになっていく運命なんでしょうか。

ネットが一般化する以前から思っている事は、そのまま今の時代でも変わらず心に残り続けています。

  • 行動したヤツが最強で最高って事にしよう
  • 口だけのヤツは無価値と見なしてイイ事にしよう
  • 無自覚なイッチョ噛み野郎は無視してイイ事にしよう

てことで、日本女子大学を本気で変えようとした彼女は、方法論がどうあれ自ら行動して自分が到達出来る結果を出したのだから、最強で最高でいいよね。

最後に

半分冗談を織り交ぜてしまいましたが、いいたい事の20%くらいは書けたかもしれません。

あと、どうでもイイ話ですが僕も大学時代休学しました。

お金はかかんなかったけど。

だからあのエントリを読んだ事で新たな観点を知って、大変満足しています。

ありがたや。■■

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