コミュニケーション幸福論

ディテールのコトをついついディティールっていってしまう人が結構多いよね、って話題を展開したいんじゃありません。

 物事を理解する時には、その詳細をどの程度細かく正確に知る必要があるのかっていうと、到達したい理解度によって必要な情報量は変わるよね、っていう話です。

 当たり前の事を長々と書きますけど、このコトが具体的に表現される機会があまりないような気がするんです。

「 認識の違い」をよく使う人々について

誰かとの会話において、何かの理解に必要とされる情報量は伝える側の主観や経験則によって概ね決定されますよね。実際にその情報量が適切であったか?っていう疑問はわざわざ取沙汰されません。これって日常においてそこかしこで起こっているエラーや不整合だと思います。そこにエラーがあったのさえ気づかれないまま流されているものが殆どでしょう。

 理解の程度が期待したものと違っていたとしてもその瞬間には気付けませんし、重要な用件だった場合はどの道あとで理解の程度を確認する場面があったりして、リスク回避されるから大きな問題ではないわけですね。ところが、その理解度のズレが確認されるコトなくそれぞれの理解のまま物事が進行したり発展したりするってケースは、結構頻繁に起こっています。

 「認識の違い」という言葉で表現されるケースは正にコレで、しっかり議論したり会話をした後でもしばしば起こるのですから、人と人が判り合うのは本当に難しいコトなんだなと思います。

 僕は、絶望視しています。

 総てを明らかにして総てを高い精度で理解し合う関係性は一見素晴らしいのですが、必ずしもそうではないかも知れません。

暖かな無関心について

恋人、夫婦、親子、においては、理解の程度を敢えて曖昧にしておくことで物事が円滑に進行したり穏やかな心境で居られるコトもあります。

 信頼や情によって許される、暖かな無関心とでも言いましょうか。

 その瞬間に総てを理解していなくても、相手の行動や思考のパターンを概ね知っているから特に心配になる事はない、みたいなヤツです。判りあった人間関係においては瞬間毎に理解を深める必要などないんですよね。

 物事のディテールなんて、わざわざ言語化して共有しなくてはならない状況の方が不自然とも思うんですが、社会生活において判り合えない人々の間ではどうしても必要になってきます。

 ただ、元々が判り合えていない人々のコミュニケーションですし、そもそもが基本的にエラー前提ですよね。

伝わらない事が前提

それでもどうにかして意思疎通しなくちゃいけないのですから、苦しい闘いですよね。逆算的に考えると、意思疎通しなくても済む情報だけをやりとりするのなら、苦しい闘いもなくエラーも起こらないというコトになります。判り合えなくてもいいような種類の情報だけをキャッチボールする感じでしょうか。

 たとえば数字だけとか。

 流石に数字だけ伝えても意味が判らないので、定型化された文言をラベルとして貼り付ける程度のコトは必要かも知れません。仕事上の多くは、この程度のコミュニケーションで成立するように思います。判り合わなくていいケースです。

 判り合えないというコトを前提とした人間関係においてコミュニケーションの方法をあれこれと試すなどは自然な流れだと思いますが、元々判り合えていた誰かとの関係性において、ある時から判り合えなくなった場合ってのが、一番厄介なケースなんですよね、実は。

 元々判り合えていたって実績があるだけに、そのズレが発覚するタイミングはずっと後になりますし、そのダメージも発覚までの期間に比例して大きくなりますから、もう超面倒嫌いウザい殴りたいし蹴りたいし噛み千切りたい消えてetc.。

言語と思考のズレ

 例えば「お互いに同じ単語を使い合っていたのに、相手は自分とは全く違う意味としてその単語を使っていた」なんて出来事があった場合に、その人が発するすべての情報を一切信用出来なくなるとか、かなりキツい状況が発生し得ます。同じ言葉を使い合いながら実は意味が違っていたケースは本当に不幸です。

 コミュニケーションにおける物事や意味のディテールをついつい追いかけがちな僕ですが、最近その性質に自ら辟易してしまうコトが増えました。もういいじゃんディテールなんか無視したら、と思いながら目を逸らすコトができません。

 無意味の可能性を感じつつディテールに追従して遂には何もなかった、または想像していたものとは全然違うものだった、追いかける必要が全然ないものだった、という結末を得てひどく落ち込んだりもします。自分は何故こんなコトにカロリーを使ってしまったのか、と。

 もっとおおらかにぽんやりとした気持ちで毎日を過ごして生きたいものですね。こんな長文など書くことなく、ね。■■

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