映画「君の名は。」を観た感想は『遂に世間に童貞映画が受け入れられた……のか……!?』だった!5つのミドコロを書いてみる

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大ヒットしているんですってね、君の名は。

新海誠監督の作品はちゃんと短編の頃から観ていました。

個人製作レベルでココまで出来るような時代になった、という当時の評価には違和感を感じながら、です。

確かに制作環境そのものが安価になり個人製作のレベルが底上げされた背景はあったでしょうが、「ほしのこえ」や「秒速5センチメートル」を誰でも創れたのかといえばそうではないでしょう。

新海監督の個性やセンスが時代とマッチした結果だと思っていました。

そして「君の名は」において商業的結果として大きな成功を収めるに至った事は、まさに時代と寄り添うことが出来た証なんじゃないかなーと思うワケです。

ではネタバレを気にせず書きますので未見の方はどうぞ読まれませんよう。このエントリは2回目を観る予定がある、または観るかもしれないあなたの為に書きます。

基本情報

千年ぶりとなる彗星の来訪を一か月後に控えた日本。山深い田舎町に暮らす女子高校生・三葉は、ある日自分が男の子になる夢を見る。一方、東京で暮らす男子高校生・瀧も、自分が女子高生になっている奇妙な夢を見た。繰り返される不思議な夢。そして、明らかに抜け落ちている、記憶と時間。二人は気付く。「私/俺たち、入れ替わってる!?」出会うことのない二人の出会い。運命の歯車が、いま動き出す…。

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感想

とても丁寧に制作された事が良く分かる作品だなーというのが第一印象でした。

新海監督のイメージを丁寧に作画に落としこんでいったんだろうなと想像します。

そもそも新海監督の作家性というものが明確に輪郭を持っていたと思うので、その方法論については作品の発表を重ねる度に洗練されていったんでしょう。

では僕が感じたミドコロを5つ書いてみようと思います。

ミドコロ1.背景描写

物語は夢を見ている時だけ入れ替わりが起こる、高校生の男女を軸に展開します。

夢が絡んだ瞬間に「この物語は空想話なのね」と宣言しているワケなので、ある種の期待感を獲得すると同時に、ナニが起こっても驚かないぞというハードルもまた用意する事になります。

つまり、ファンタジーなのだから、どんな困難が起こっても不思議な力で解決を図る可能性がある、という事を無意識に植え付ける事になります。

こういった性質があるからこそ、質の高いファンタジー作品ってヤツは世界観の説得力が非常に高品質で完成度が高い物が多いワケです。

「君の名は。」においては、その世界観の完成度を圧倒的な背景描写によって達成しています。

これは絵画的な意味合いでの背景描写であり、情報量的な意味合いでの背景描写の事を指します。

背景作画はもはや新海監督のお家芸的な存在ですよね。

デジタルならではの光の演出は大変美しく強く印象に残ります。

そして細かく描写し拘りをもって表現する街並みや山々などの自然は、その情報量が極端に多いんです。

完全に情報過多。

恐らく一度観ただけでは総ての背景を認識し切る事は出来ないんじゃないでしょうか。

それ程の情報量を詰め込むにはそれなりの手間と情熱が必要です。

一度しか観ない事が殆どであろう劇場向け映画作品でそんなにも情報量を詰め込む理由は何か。

それこそ世界観が持つ説得力の獲得ではないかと思います。

日々の風景は、人々がそこに目を向けようが向けまいがただそこの存在し日常的営みを繰り返している。

言葉にするとこんな陳腐な事を絵として表現し意識下で「当たり前の事」と認識させる事に大きな意味があるからこそ、この表現、描写は必要なのでしょう。

それはキャラクタを際立たせる意味でも大きく影響しているワケですが、それは2番目のミドコロです。

その大きな意味、とは?

ミドコロ2.童貞感

この作品最大の見どころはココです。

いい切ります。

童貞感が全編に渡って発奮されていました。

これは何も未熟であるとか思慮無しといいたいワケではもちろんありません。

賛辞のワードとして「童貞感」を使っているにすぎません。

ここで間違って解釈されたくないのですが、童貞感とは「童貞が無双する」とか「童貞がエロい事を稚拙に夢想する」系の事をいってるんじゃあありません。

男女間に肉体関係が存在しない段階でしか想定し得ないような、無軌道な発想や無根拠な努力、無制限なヤル気、なんかが混ざり合って爆裂している作品という意味です。

簡単にいうと、純愛ターミネーター、です(どうにもネガティブな印象が払拭出来ないのは、僕の語彙が貧弱だからです)。

恋愛とはつまり純愛しか存在しない世界があったとしたら?

いや、そんな世界はありはしない、考えるだけナンセンス、稚拙な妄想だよ。

なんだと!?

もしかしたらあるかもしれないじゃないかよおおおお!!!

想い続けていたら奇跡が起きるかもしれないじゃないかよおおお!!!!!

こう書くと「君の名は。」が全然違う物語に感じられてくるから不思議です。

あすみません、調子に乗りました、うっすら悪意を混ぜてしまいました冗談ですってばあ。

でもまあ、僕がいいたい事は概ね間違ってはいないです。

ミドコロ1.で、世界観の説得力を獲得すべく濃密かつ情報過多な背景描写が魅力である事を書きましたが、恋愛をする二人以外は総てこの「背景」に含まれます。

恋愛をする二人だけが世界から切り離されたファンタジーって事です。

これは比喩でもありますが直接的にもそのまんまの意味ですね。

恋愛は現代の残された数少ないファンタジー現象の一つですからね。

とてつもなくリアルな日常や街並みの中で、恋をする二人だけは完全に絵空事なんです。

あまりに巧みな演出と描写力でなかなか気づき難い事かもしれませんが、落ち着いて考えてみると彼等二人の思考や行動はとてつもなく非現実的なんですよね。

んなヤツおるかいのオンパレード。

んな都合いい事起こるかいのオンパレード。

たまたま夢を共有してしまった女の子が巫女ですよ!?

さらに方言女子ですぞ。

これが物語の展開上or設定上必要に迫られる事で決定されたなどと思えますかい(ちなみに僕に巫女属性はありません)。

あ。

またネガぽくなってしまいました。

僕の人間性が醜悪なんでしょうか。

これは一見否定的に感じられるかもしれませんが、そうではありませんまあ聴いてやってください。

つまり、観者の観たいもの、観たい展開、もっといえば観たいテンプレ展開、観たい人間性、をドンズバのタイミングと配置で放り込んできてくれる、という事に他なりません。

ソレってつまりアリガチでウケやすい設定とか展開をただ並べただけじゃね?

いいえ違います気持ちいい程全く違います。

そういった一見誰でも思い付きそうな設定やウケやすいと思えるようなチョイスを、そう感じさせずにあたかもその世界の中では自然な出来事のように見せる事はとてつもなく難しい事であり、普通はわざわざそんな手段を採用しません。

そんな事に心血を注ぐよりも、目新しい設定やちょっと捻った展開を生み出すほうがクリエイティブに感じられるしなにより製作者が楽しいですから。

またはテンプレ展開である事を前提としてぶっちゃけた状態の作風にするとかもあり得ますが、この作品はそんな事はしていません。

大真面目に超都合のイイ話をグイグイと展開していくんです。

テンプレじゃん、といわれるかもしれないような設定を。

でも新海監督はこの手段を選んだ。

なぜ?

ここが新海監督最大の魅力だと思うんですが、彼は永遠の童貞感を描ける作家だとう事です、と、思うんですよねー。

43歳のおっさんがこんなにも瑞々しい童貞感を描ける事は本当に驚異的だと思います。

どこまで行っても、制作者は描きたい色々のキャラクタの年齢になれるワケではありませんから、必要なのは究極のリアルではありません。

リアリティで充分てことです。

ソコにリアリティを感じる事が出来るのは、作家の腕って事だと思うのです。

もしかしてあなたは新海監督の演習ではリアリティを感じられなかったかもしれませんが、それは残念でした、刺さらない人類もいますからね。

ミドコロ3.エロ成分

これは正直いって、斜めな見方かもしれません……、いや僕的にはかなりあからさまだと感じています。

この作品は、童貞感溢れる二人の男女の恋愛を描いていますが、恋愛のプロセスにおいては全くエロが存在しません。

キスもしません。

全編を通して数秒間手が触れるくらい、です。

これは童貞感がブレていない演出の一部だと思いますが重要なのはソコではなく、恋愛とは無関係の部分でエロ成分を小さく刻んで来ているという事です。

三葉が作る口噛み酒などは判りやすいですよね。

処女性に近い性質をもつ口噛み酒を主人公の女の子が作る。

口から吐き出すシーンも描く。

これはかなり大人向けというかマニアックなエロ成分を含んでいるワケですが、かと思うと三葉化した瀧君が胸を揉んで感触を噛み締めるなんてシーンもあったりします。

これは今時中学生でもヤんないんじゃない?ってくらい稚拙なエロですよね。

でもこのシーンは単純な幼稚エロ・ギャグの意味だけではない、と読みます。

この入れ替わりによる肉体確認はいうまでもなく童貞映画の金字塔である「転校生」へのオマージュに違いありません。

原作「おれがあいつであいつがおれで」から連綿と続く性転換フィクションの、いわば「お約束」です。

「転校生」「おれがあいつであいつがおれで」の両作品共に、異性の体を手に入れてしまった思春期の男女が、好奇心と劣情に対して理性や道徳心で抗うシーンが含まれています。

この表現が実に可愛いワケです。

大人から見れば、どうという事のないエロさは童貞諸君にとっては過激な出来事かもしれません。

そのギャップが性転換フィクションの醍醐味の一部である事は間違いないでしょう。

昭和48年生まれの新海監督の事ですから、大林信彦監督の作品はご存知なのではないでしょうか。

そしてリスペクトしているのでは。

何故なら大林監督こそレジェンド・オブ・童貞映画の巨匠だからです。

尾道三部作などは素晴らしい作品ですから、未見の若人諸氏はこの機会に是非手にとってもらいたいですね。

童貞映画の魅力はココニアリ、です。

話がズレました。

そのほか、わざわざ飛騨の宿で三人を同じ部屋に泊まらせたり、奥寺先輩のスカートをヤカラに切らせたり、瀧くん化した三葉の事を、友人である司くんに「可愛い」といわせるなど、とにかく細かいエロやエロの予感をフンダンに散りばめているんです。

こんなのワザトに決まってるでしょ!

これはこの作品に限らず思う事なのですが、演出のサブリミナル効果ってのは明らかにあると思うんですよね。

これは作家性、作家が見せたいもの、つい見せてしまったもの、と同じで、小さく断片的に織り交ぜられたエロは、やがてやってくる物語のクライマックスを観た時に感じる印象に、しっかり影響を与えているんじゃないかなぁと。

ミドコロ4.実写的演出

これはかなり判りやすかったですよね。

明らかに実写でしか使わないような演出を敢えて採用する。

劇中何度も都市とその上空をフレームに入れたタイムラプスが挿入されます。

よくイメージ映像なんかで都市を人間がちょこまかと歩き車がヘッドライトの糸を引いて上空は雲が凄い勢いで変形しながらすっ飛んでいく、みてーなヤツです。

この表現をしっかりクオリティの高い状態でアニメ内に再現した作品を、初めて見ました。

この表現というのは、シャッタースピードを落とす事なく撮影された写真の連続や、超低速度作成された動画のコマ落とし等で得られる効果で、カメラという物理的な制約を逆手に取った演出テクニックの一つです。

つまりわざわざこの表現をアニメで再現するには余分に手間がかかるワケです。

ではなぜこんな表現を採用したのか?

あくまで想像ですが、新海監督はやはり世界のリアリティの下敷きとして、現実の「今」を採用したかったのではないでしょうか。

これは時代性が大きく影響します。

つまり、正式な名前を知らなくても今を生きている世代(まあ新海監督の作品を観に来てくれる世代といっていいですね)は、経験上タイムラプスという技法によって作られた映像を観た事があり、その表現が永い時間の経過や長期間の経過を意味する事を知っている、というメタ的背景を作品に持ち込んでいるつー事です。

あれ?全然ややこしいいい方になってますね。

現実に存在する「今」を切り取って作品に組み込もうとした、ってのはザックリし過ぎでしょうか。

とにかく、現実の世界に何気なく起こっている日常的な出来事や、日々目にする映像などの表現は、実に丁寧に神経を使って作画されていました。

総ての演出は「そこに世界がある」と錯覚させる為に、全力投球しているといった印象です。

物語上特に重要ではない日常描写のカット数を数えてみたいくらいです(またそんなシーンで3DCGによるカメラアングルやカメラポジションのアニメーションがあったりするからたまりません)。

あとは扉表現も面白かったですね。

シーンを切り替える手法ってのは色々ありますけども、本作品では引き戸のしまった状態にカメラレンズをめり込ませて、極端なアップ+音の演出でテンポ感を出していました。

これは現実的なカメラの存在を意図しながら現実では撮れない映像なのですが、観ている時はなんとなく見過ごしてしまいます。

ただ話の切り替わりとして何度も別の扉を登場させて開いたり閉じたりする事で、次の展開への期待を持たせてくれるような演出でした。

こういった重要な役割に、日常的なパーツを使っているのもまた、巧いですよねー。

ミドコロ5.疾走感

この物語、何度も書いていますように情報量が半端なく多いんですね。

そして取り扱っている話も実に濃密です。

単純に起こる出来事の数がむっさ多い。

この話ちゃんとケリがつくのか?と一瞬不安も過りました。

がそれは杞憂に終わりました。

後半からラストにかけての疾走感がえげつないからです。

このラストに向かって疾走する感覚は、それまで丁寧に丁寧に世界を描きながらうっすらエロも織り交ぜつつ、でもファンタジー満開な二人にストレスをかけてかけて我慢状態が続いてきた先に待っている、ご褒美みたいなものでした。

総て糸が繋がり、物語が目指すべき方向に向かって走り出す時の高揚感は、凄まじいものでした。

むっちゃくちゃ気持ち良くなかったですか。

もし応援可能上映とかだったら、僕は確実に声出していましたね。

この疾走感のコントロールが本当に巧く作られていて、この緩急、押し引き、に何度も唸らされました。

絶賛です。

走り出したと思ったらまた緩やかになって、でも最後の最後にまた助走をつけて走り出した瞬間に物語は終わる!

嗚呼!

最後に

長々と書きましたね。

気が付けば6000文字オーバーです。

でも時間は全然かからなったんですよ、一気に書ききりました。

あとで読み直したらチグハグな部分も多々見つけるんでしょうが、今はこのままこうか ボタンをクリックしようと思います。

もしもまだ観ていないのに読んでしまったあなたは、今からでも遅くありませんから劇場で観てください。

最高に童貞臭い映画で大いに感動出来ますから。■■

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