先日、公開したばかりの映画「沈黙 -サイレンス-」を観てきました。
直ぐに感想を書けば良かったのですが、しばらくどうしたものかと考えてしまったんですね。
しかしまあ、時間が経って気持ちも整理されて来たので、書いてみようと思います。
ネタバレを厭わずに書きますので、ご覧になるご予定のある方はお読みになられませんよう。
基本情報
マーティン・スコセッシが監督、ジェイ・コックスとスコセッシが脚本を務める。出演はアンドリュー・ガーフィールド、リーアム・ニーソン、アダム・ドライヴァー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシら。日本ではKADOKAWAの配給で2017年1月21日公開。
キリシタンらに対する激しい迫害や拷問・処刑のシーンなどが多いため、レイティング(年齢制限)は、日本ではPG-12指定(子供の鑑賞には保護者の指導を推奨)だが、アメリカではR指定(17歳未満の鑑賞は保護者の同伴が必要)となっている。劇中ではBGMの音楽はほとんど流れない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
感想
マーティン・スコセッシ監督の意欲作。
スコセッシ監督の作品てご覧になられた事ありますか。
僕はボチボチ好きな程度でして「タクシードライバー」辺りのTシャツを買っちゃう程度です。
カッコいいよね、デニーロ。
その他の作品も有名だし、公開される度に劇場鑑賞候補にあがりはしつつも、今一歩決め手に欠けるというか「どうしても観たい」と思わされる程の興味は持てなかったんです。
だって、こう……、なんか重そうじゃね?
古くから映画を撮り続けて来た大御所監督で、賞なんかもバカスカ取りまくっています。
更にいわゆる「娯楽作品」というより考えさせられる系の作品という印象があって、なんつーか気軽に観れない感があったんですよね。
タクシードライバーも、戦争経験の薄暗い精神状態や社会の有り様が大きなテーマでした。
そういった大御所感が作品から足を遠退させる理由だったハズなのに、より重たくより大作感の強い本作品を劇場で観たくなったのはなんとも不思議な感覚です。
何故かこの作品は観なくてはならない、という気分になってしまったんですね。
しかし、そんなスコセッシ・ビギナーには、あまりにヘヴィな物語が待っていました。
日本人が知らない日本の隠れ切支丹を描く
作品は、真っ黒な画面のまま、日本の田舎や山で聴かれるような、夜の草むらで鳴く虫の声、風で騒めく草木の音で始まります。
日本人にとって、なんとも日本らしいと感じるノスタルジックなイメージが脳内に広がる。
物語は自然が発する音ともに緩やかに始まるのです。
驚くことにこの作品、劇中でただの一曲も音楽が使われていません。
演出としての楽曲を一切排したということは、それだけ構成や演技が剥き出し状態で観客に伝わるわけですから、監督の力量がモロに見えるなんともリスキーな手法といえるでしょう。
スコセッシ監督の心意気がのっけから突きつけられる感じ。
歴史の授業で、日本が鎖国を解いた後に伝わったキリスト教が結果的に、時の権力者によって弾圧された事を聞かされた事がありましょう。
「隠れ切支丹」なんて言葉はなんだかドラマチックに感じられるし、そうまでして信仰を大事にしようとした事にへーすごいなー大変な時代やってんなー程度の感想は持ち得ても、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。
それ以上、想像のしようがないのでね。
実は僕の母方の祖父母が敬虔なクリスチャンでして、彼等の世代にしては珍しく葬式も総てキリスト教の作法に則って教会で執り行われました。
そうした事もあって、比較的幼い頃からキリスト教関連の話は見聞きする機会が多かったんです。
日曜日の礼拝に連れていってもらった事もあったし、クリスマスにはキリスト誕生の絵本をもらったり。
有難い事に僕が望まなければ、無理に信仰を強要されるような事はなかったので、結果的に僕は無神論者になりました。
しかし夏休みになれば祖父母の家に遊びに行き、ご飯の前のお祈りには参加し、幼いながらになんとなくですが彼等の信仰心は尊いなと感じていました。
信仰心を持つ事によるマイナスイメージを持つコトなく育ったんですね。有り難い有り難い。
で話を元に戻しますが、この映画で初めて隠れ切支丹の壮絶な信仰心、棄教を迫る悲惨な拷問を知るに至りました。
信仰を持つ事ってこんなに苦しく命懸けだったのか……、と。
観客は主人公の視点に乗っかる
これは映画の構造というか仕掛けとして、実に巧みに創られた部分です。
主人公は自国で布教を務める若き神父。
教会で彼はショッキングな知らせを受けます。
かつて自分に教えを説いてくれた師たる神父が、布教の為に日本に渡り様々な弾圧を受けた末、遂に棄教したと。
自分に信仰の種を与えてくれたあの師がまさかそんな、信じられない。
何かワケがあるに違いないと考えた彼と兄弟弟子の二人は、師を救う為に、弾圧が激しいとだけ聴いている日本に渡る事を決意します。
もうこの時点で凄いよね。
行った事もない国。
多分行く事そのものが無茶苦茶困難な時代です。
行くだけで命懸け。
そんな場所に、生きているか死んでいるか判らない師匠を探しに行くわけです。
しかも、キリスト教の神父だと知れたら何をされるか判らないような危険な場所に。
この時の彼等の不安に、観客は自分の視点・感情を重ねる事が出来るんですね。
どんな場所でどんな事が行われているのか……。
不安は確かにあれど、ちょっと甘く考えている部分もあったりしませんか。
大変とはいえ、信仰を持っているだけで直ぐに殺されたりは、流石に、きっと、いや間違いなく……ないだろう!とか。
物語序盤は彼等が未知の国日本で、身を隠しながら隠れ切支丹達と出逢い、幾人もの告解を聴き、許し、教えを広める苦しさに耐えながら、それでも師匠の行方を探す展開です。
誤解を恐れずにいうならば、アドベンチャー感がある。
隠れながら布教し、信者達の告解を次々と聴き罪を赦す日々。
貧しいながらも父なる神への祈りを通じて心を通わせて行く様は、良かったねぇという気分になります。
しかし信仰を持ち続けて行く事の危険も描かれます。
2人の神父を手厚くサポートしてくれていた村人が、苛烈な拷問の末次々と命を落としていく様が描かれます。
そうして主人公達も幕府の役人に捕まってしまいます。
しかも、自分を導師として慕い世話を見てくれていた隠れ切支丹の密告によってです。
主人公の神父は、この苦難さえも父なる神が与えたもうた試練であり、密告をした切支丹の気持ちさえも慮って静かに囚われの身となります。
ここで、アドベンチャーの乗り物のように感じていた主人公の視点から乖離します。
あんた、そんなにイイやつでどうすんねん!
殺されっで?!
あいつ許したらあかんあかん!
僕はこの展開によって、主人公の視点と観客の視点がどんどん乖離して信仰に身を捧げた者の敬虔な振る舞いを見せられて行く作品なのかな、と思いました。
が、全然違うんです。
沈黙の意味が重た過ぎる
あまりに過酷な運命の連続に、主人公は内なる神に問いかけます。
あなたはなぜいつまでも沈黙し続けているのですか、と。
自分が棄教しない事で次々と代わりに殺されて行く信者達を目の当たりにしながらも、只々祈る事しか出来ずに神の加護は体感出来ない。
「自分の信心が足りないからなのか?」
「自分が未熟だからこんなにも心が揺れ動くのか?」
え。
そんな事、いっちゃうの?
信仰を全く持っていない僕ですが、この問いは簡単に看過出来ない重たさを感じます。
沈黙とは、静かに耐える信じる側の話ではなく、沈黙し続ける神の話だった。
宗教、信仰、というものを、宗教心や信仰を持たない人に考えさせるには、こんなに強烈な方法はありません。
いや、信仰を持っている人にだって苦しい問いでしょう。
とにかく、僕には苛烈過ぎて息苦しくなる程のインパクトがあったのです。
そして囚われの身となった主人公は、最大の敵である大名がかつて切支丹であった事を知らされ、日本人にはまともな信仰は根付かないと、説明されます。
神に祈りながら殉教すればパライソに行く事が出来ると信じている日本人の信仰は、キリスト教が教える「信仰」といえるのか。
貧しさからの逃避願望に都合が良かっただけなのでは?
そんな問い、議論、が僕の頭の中でぐるぐると回ります。
映画館でこんなにも息苦しく頭を使ったのは初めての経験かもしれません。
最後に
物語が終わった後、スタッフロールが流れる間、曲が流れる事はなく、オープニングで聴こえた日本の夜の風景の音が、ただ延々と流れます。
エンタメ的な演出を一切排した静かなエンディング。
物語は一旦の終焉を迎え、何も謎が残されたわけでもないのに直ぐには座席を離れる事が出来ませんでした。
脳内に何かの種を残された感じ。
3時間の苦行だったともいえるような内容ですが、観なければ良かったとは思いませんでした。
信仰心に全く興味のないあなたには正直勧めにくい作品、しかしきっと後悔はしないでしょう。
僕がそうだったように。
最後にどうでもいい事を。
ポルトガル語が全然出てこないのには、違和感を感じました。が、まあそこはいいかな!■■
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